2025/5/22 音楽療法Meeting@KUAS
- otohitokotoba
- 2025年5月27日
- 読了時間: 3分
以下、Meetingの内容の覚書です(^^)/
音楽はことばより古い
歴史的に見てもどうやら歌唱が先にあり、そこから言語が生まれたのでは?という説がある(岡ノ谷一夫氏)
また動物からの進化を見てもどうやらヒトに至るまでの進化の過程には歌うことが先にあったと考えるほうが自然のようである。(ヒトのように音を聴いたように真似して発音できるのは、鳥の半分くらいの種類、クジラ等にて確認されているとのこと:岡ノ谷氏)
音楽は、人の「行動」やことばとなる「音を使うという行為」を抽象化したものではないか。
人が音を生み出すことは「息」になされていると考えられるので、音楽を通じて行為・行動を合わせるということは、「息」を合わせることである。息、つまり呼吸はヒトの生命活動の根幹をなす活動であるという点から考えると、「息を合わせる」という行為は「生きを合わせる」に通じ、音楽を通じた行為行動は命の協応ともいえるのはないか。
息を使わない楽器類(打楽器や弦楽器)においても、巧いとされる演奏にはやはり「息遣いの意識」があるとのこと。(もとい、音の高低、響き、強弱、長さなどを、楽器を用いずに身体で表現する、つまり声で表現するためには「息遣い」が必須であり、息使いそのものである。そこから考えるに、息を使う楽器だろうとそうでない楽器であろうと、息遣いのある演奏が、ヒトにとって好ましくある状態して感じられるというのも納得できる)。
そう思うと、やはり「音楽」というのは、息遣いを根源として生きるヒトの根源(生命)から抽出された結晶なのかもしれない。(追記だが、そう思うと、Classic以外にもRockやBlues、Jazz、Popsなどのジャンルが豊かであることも心地よい。世界にはいろんな人がいろいろな生き方をしている。だからいろんな音楽(息遣い)がある・・・ことになる)
また能の文化においても、この息遣いという点は強調されているとのこと。
認知症のオレンジカフェのひとつの演目として、少なからずの時間を「音楽」に割いても多くの人が文句を言わない。
(くどいくらい比較例として挙げた「コマ回し」では、これほどの時間と頻度を保てない)
音楽がこのようにして特別な演目として多くの人に容認されるのは、やはり上記のように「ヒトの根源」に響くことができる特性(性質)を持っているからではなかろうか。
以前から時々、このMeetingでも話題となるいわゆる「一般的な音楽療法、ときに音楽レクともいわれる」について、今回は考えてみた。音楽レクと言われようが、そもそも「音楽」が一定の時間を与えられることに疑問を感じた。なぜ、ヒトは音楽を承認するのか。今回のMeetingでは、普段の「音とヒト」という視点とは違い、「音楽とヒト」について考察した。
音楽はヒトの「生き」方を抽象化したものではなかろうか。それゆえに、ヒト(複数集まって過ごす空間も同様)に、「音楽」は自然と承認されるのではなかろうか。
書きながら思ったけれども、よく音楽はLIVEが良いと言われる。それについても、今回の議論が貢献するように思う。その時の、その環境の、その集まりの雰囲気(息遣い)に合わせて演奏されるからだろう。録音したデータは演奏としては完成しているが、そのときの聞く側の環境には合わせられない。もちろん、それはそれでよい時間となるだろうけれど、たとえばハワイアンをKitchenで聞いてもよい時間だろうが、HawaiiのBeachで生演奏で来た方が…聞いている人の息遣いと演奏の息遣いがMatchするということになる。
一旦、以上で(^^)
また次回、楽しみにしています!
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